個人情報保護のため削除部分あり一一世紀末から一二世紀前半のハラブでは、宗派の違いを超えたウラマーの協調関係が見られた。シーア派のハッシャープ家は住民の代表者として政治に大きな影響力を行使し、ハナフィー派法学を奉ずるアブー・ジャラーダ家の法宮達は、多数派であるシーア派の見解に従って司法業務を行なっていた。早くから土着化していた両家は、宗派的利害よりも地縁的な利害を優先させたのである。ところが一方で、一一世紀半ばに到来したアジャミー家や一部の支配者によって、一二世紀初めからスンナ派の勢力拡大が図られ、この動きがハラブに宗派対立をもたらした。一二世紀前半以降、ザソギー・アイユーブ両朝下で進められたスンナ派優遇策はその傾向に一段の拍車をかけ、シーア派対スンナ派の騒乱が激化するとともに、ウラマーの動向においても宗派の持つ意味が重くなっていったのである。Until the mid twelfth century, Aleppo was the center of the Shiites in northern Syria. Indeed, Shiites composed the majority of Aleppo's population. From the late eleventh until the early twelfth century, religious leaders of Aleppo--ulama--cooperated closely even though they were divided among members of both the Shiite and Sunnite sects. The Abu Jaradas, ninth century i...